週末の公園は、春の陽気に誘われた家族連れで賑わっていました。
人気のブランコには、小さな列。
ようやく順番が回ってきて、吸い込まれるように飛び乗った娘の背中を見ながら、私の心はいつもの「そわそわ」を感じていました。
「後ろの子、待たせちゃ悪いな」
「あのお母さん、まだかなって思ってるよね」
娘の笑顔を一番に守りたいはずなのに、私のアンテナはいつの間にか、背後に並ぶ「誰かの視線」を優先してキャッチしていました。
「期待」をプレゼントするつもりだったけれど
ふと、以前学んだ考え方を思い出しました。
「待っている子に、『次は自分の番だ!』というワクワクする期待をプレゼントしていると思ってみよう」
私は娘に、そして後ろの人にも聞こえるように声をかけました。
「あと10回漕いだら、おしまいね」
10回、そしておまけの11回。 ここまでは、私も笑顔でした。
娘の満足感と、周囲への配慮。そのバランスが心地よく取れている「黄金比」の瞬間だったからです。
けれど、2巡目に乗った娘が「今度は23回ね」と言ったとき。 私は「そわそわ」・・・
止めてしまった「手」と、消えない罪悪感
娘には、ブランコの揺れがゆっくり、ゆっくり収まって、完全に止まるまでを味わうという彼女なりのルーティンがあります。
でも、23回目を数え終えたとき。
背後の視線という重圧に耐えきれなくなった私は、自然に止まるのを待てずに、思わず自分の手で、娘のブランコを止めてしまいました。
「ごめんね、もうおしまい」
無理やり物語のページを閉じられたような娘の顔。
その瞬間、胸の奥がツンと痛みました。 なぜ私は、あの子の視線に負けて、愛する娘の「楽しみ」を、自分の手で止めてしまったんだろう。
「正解」よりも大切な、私の境界線
11回は許せて、23回は耐えられなかった私。 その差を、娘に論理的に説明することなんてできません。
でも、気づいたんです。
23回目は、私にとっての「心の境界線」を超えたサインだったのだと。
外側の「誰かの機嫌」を勝手に背負い込みすぎて、私の心の器がいっぱいになり、一番大切な娘を守る余裕がなくなってしまった瞬間でした。
「いつもこうして、私と、私の大事な人を後回しにしている」
そんな感覚が、止めてしまった手のひらに残っていました。
家事代行のお仕事や講座で「手放していいんですよ」とお伝えしている私自身が、一番「良い人」でいようとする呪縛に囚われていたのかもしれません。
理由なんて、それでいい
どちらの気持ちに従うのが正しいのか。きっと、正解なんてありません。
でも、次に同じ場面になったら、私は娘にこう言ってみようと思います。
「ママ、20回を超えるとソワソワしちゃうから、今日はここまででいいかな?」
後ろの人のためではなく、「ママが心地よくいられないから」という理由でいい。
外側の正解を探すのをやめて、自分の正直な気持ちを、大切な人に伝える。
それは、私たちが自分自身と、大切な人を二度と後回しにしないための、小さくて大きな一歩。
ブランコを止めてしまったあの手の感触を、私は「自分を大切にするための教訓」として、忘れないでおこうと思います。
